突然ですが、私怠惰なペシミスト(悲観主義者)でございます。こんな事言ったってどうなるわけでもないんですが、今回は楽観主義と悲観主義について少々書こうとその場の気分で思い立ったのでかかせてもらおうかと。
ΞΞΞ
悲観主義や厭世観というのは、とかく煙たがられます。『マイナス思考』や『厭世観』とも言い換えればピンと来る人も多いでしょう。
お話にするとこんなかんじです。
ν
同じアパートの隣同士に住む2人の男が同じ時刻、喉が渇いたので、水道から水を汲みました。
ところが、水を汲んでいる途中で水道が止まってしまいます。
水道管が老朽化で壊れてしまったのです。一人の男はコップを見てこう思います。
「おお、まだコップに半分も水が残ってら。ありがたくいただくとするぜ」
しかし、対照的にもう一人の男はこう思いました。
「喉が渇いているというのに、半分しか水が入っていない......」
ν
前者が典型的なオプティミスト、後者が典型的なペシミストです。先程も言いましたが、世の中では基本的にオプティミストで有る方がいいとされます。中には、「このままペシミストではあってはならない!」とオプティミストに転向しようとする人も存在します。私も持病が良くなってきた時、そういう考えに及んだりしたのです。
が
気質というものは変えようがなく、「マイナスに考えてはいけない」という義務感と「どうしてもマイナスに考えてしまう自分」との間のギャップに耐えられず、ストレスで逆に病気を悪化させてしまいました。ついでに、悲観主義的な側面が過剰になってしまい、更に損をすることになってしまいました。
この体験から感じたのですが、ペシミストとオプティミストには基本的に「良いも悪いもない」のではないでしょうか。悲観主義は悲観的な考えに囚われ自己を傷つけることが多く、楽観主義は時として足元を掬い自己を傷つけます。
人間、基本的に「変えようのない自己にそぐわぬことをする」という事は毒になります。あくまで若造の私見になりますがその毒を解毒するのは、「自己の受容」ではないかと考えます。
「自分は、こんな人なんだ」
「自分は、こんな性格をもって生まれたんだ」
ということを知り、社会的な評価や観点から離れてまずはありのままを受け入れる事がないと、自己を否定することになります。自己を他の人間から否定されるのが凄い負担であるように、自己を自分という人間から否定されることもまた凄い負担になるでしょう。
そこで提案したいのですが、何かに対して「寛容(厳しく)であれない、楽観的(悲観的)であれない」と思う人はまず「寛容(厳しく)であれない、楽観的(悲観的)であれない事に寛容になってみる」というのはどうでしょうか? 一朝一夕に体を鍛え上げたりダイエットしたりすることが出来ないのと同じで、心も一朝一夕にありたい姿に有ることは出来ないのです。
「心の癖」を知る事は「武器」になります。ついその癖をとってしまう時に気がつけるからです。そしてそれを武器として使うことも出来るようになります。それは「楽観」や「悲観」、「怒りっぽい」とか「マイペース」である事、実に多種多様です。十人いれば十人とも持っているものの種類が違います。
少なくとも、安易に「変わること」や「明るくなること」を他人に強いたり、楽観主義で全て良しとすることはしたくないものです。あくまで「提案」程度に留める事が望ましいと、私は考えます。そこで強制すると、最悪恨みを買いますから、ね。
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悲観主義や厭世観というのは、とかく煙たがられます。『マイナス思考』や『厭世観』とも言い換えればピンと来る人も多いでしょう。
お話にするとこんなかんじです。
ν
同じアパートの隣同士に住む2人の男が同じ時刻、喉が渇いたので、水道から水を汲みました。
ところが、水を汲んでいる途中で水道が止まってしまいます。
水道管が老朽化で壊れてしまったのです。一人の男はコップを見てこう思います。
「おお、まだコップに半分も水が残ってら。ありがたくいただくとするぜ」
しかし、対照的にもう一人の男はこう思いました。
「喉が渇いているというのに、半分しか水が入っていない......」
ν
前者が典型的なオプティミスト、後者が典型的なペシミストです。先程も言いましたが、世の中では基本的にオプティミストで有る方がいいとされます。中には、「このままペシミストではあってはならない!」とオプティミストに転向しようとする人も存在します。私も持病が良くなってきた時、そういう考えに及んだりしたのです。
が
気質というものは変えようがなく、「マイナスに考えてはいけない」という義務感と「どうしてもマイナスに考えてしまう自分」との間のギャップに耐えられず、ストレスで逆に病気を悪化させてしまいました。ついでに、悲観主義的な側面が過剰になってしまい、更に損をすることになってしまいました。
この体験から感じたのですが、ペシミストとオプティミストには基本的に「良いも悪いもない」のではないでしょうか。悲観主義は悲観的な考えに囚われ自己を傷つけることが多く、楽観主義は時として足元を掬い自己を傷つけます。
人間、基本的に「変えようのない自己にそぐわぬことをする」という事は毒になります。あくまで若造の私見になりますがその毒を解毒するのは、「自己の受容」ではないかと考えます。
「自分は、こんな人なんだ」
「自分は、こんな性格をもって生まれたんだ」
ということを知り、社会的な評価や観点から離れてまずはありのままを受け入れる事がないと、自己を否定することになります。自己を他の人間から否定されるのが凄い負担であるように、自己を自分という人間から否定されることもまた凄い負担になるでしょう。
そこで提案したいのですが、何かに対して「寛容(厳しく)であれない、楽観的(悲観的)であれない」と思う人はまず「寛容(厳しく)であれない、楽観的(悲観的)であれない事に寛容になってみる」というのはどうでしょうか? 一朝一夕に体を鍛え上げたりダイエットしたりすることが出来ないのと同じで、心も一朝一夕にありたい姿に有ることは出来ないのです。
「心の癖」を知る事は「武器」になります。ついその癖をとってしまう時に気がつけるからです。そしてそれを武器として使うことも出来るようになります。それは「楽観」や「悲観」、「怒りっぽい」とか「マイペース」である事、実に多種多様です。十人いれば十人とも持っているものの種類が違います。
少なくとも、安易に「変わること」や「明るくなること」を他人に強いたり、楽観主義で全て良しとすることはしたくないものです。あくまで「提案」程度に留める事が望ましいと、私は考えます。そこで強制すると、最悪恨みを買いますから、ね。
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COMMENT
プロフィール
HN:
ANUBIS
性別:
非公開
自己紹介:
享楽主義者で極度の虚弱体質であり、調子が悪くなると饒舌に成る特殊体質の持ち主。
なんだかんだで3日坊主ですぐ飲めないお酒に逃げたがる割に怠惰故に逃避を拒む矛盾した人。
平日に更新しているときは大抵虚弱なお陰で病欠の時だと思われ。
なんだかんだで3日坊主ですぐ飲めないお酒に逃げたがる割に怠惰故に逃避を拒む矛盾した人。
平日に更新しているときは大抵虚弱なお陰で病欠の時だと思われ。
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