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 某Twitterアカウントの中の人が思ったことや書きたいことを気のままに書くブログです。最近更新停滞中。
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 私は結構奇異といいますか、シャーロック・ホームズの時代から200年前のイギリスに居れば火あぶりだった類の性格の持ち主です。
(かといってホームズほど頭は良くないですよ! テストに出ますよ!)

 この時期(10代)には、特有の「ズレ」があるのだそうです。

 でも、私は少し違う「ズレ」を感じています。自分が自分でないような、までは普通です。人に自分を本名で認識されたら、自分がその人の中で死んでしまうような感じです。
もっと言うと、自己の分裂です。

Ξ

 元々、出る杭は打たれるの法則を着実に遂行してきたので、自分を出すことがないのです。
「自分を出せば、即刻村八分という仲で過ごせばこうもなろう!」と言いたいぐらい。そういう環境下にあると自分を出すことは綱渡りです。というより、分の悪いロシアンルーレットと言ったほうが正しいかもしれないですがね。
 そして、その本名で認識されるということは、=で自分を出すなということに繋がります。言わば名前がオリと化してしまうわけです。

「今の私は、自らを器と規定している」

「オレは今まで、自分をパイロットと規定してきた」

「今の私はクワトロ・バジーナだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 と、ガンダムシリーズに登場するキャラが言うようながんじがらめの状態にリアルになっていると気づいたのはつい最近です。

 元々、この国は「画一化」と「マゾヒズム」が大好きです。みんなと一緒になることで不安から目を背ける。そうでない無垢な人間すら取り込み(そうでない人間は自分を不安にさせますから)、できなければ村八分。
その宗教めいたものの教義の中には、極端なマゾヒズムがあります。つまり、どれだけマゾヒスティックに耐え忍んだか、或いは努力したかということが全てなのです。だから、「運は実力のうち」ということもない。そして、「成功していないものは努力不足」となる。

 まるでカルト教団じゃありませんか。(実際あれ程disられている創価学会が一定のシェアを得ているのもこの国の多数の価値観と親和するからでしょう)しかも、重要な心的エネルギーや心的な資源を根こそぎ奪い取られようと、賠償なんてあっちは払うこともない。どこ吹く風でのうのうとしていられる。

 けれども、それも長くは続きません。窒息プレイの果てに本当に窒息死する人が居ますよね。それだけではありません。画一化と言う事は、脆弱であるということです。
そもそもなぜ生物が多様性を持つようになったかというと、画一化してしまえばある事が起こった時みんなしんでしまうからですよね。つまり、ある種の外敵には極端に弱い。

 そして、多くが画一化されてしまった今。案外、画一化されてしまった人々の絶滅までのカウントダウンは、近いかもしれませんね。

 自己の分裂、と言う意味では、私も彼らと同類ですが。彼らは1984年さながらの二重思考をやってるだけあって、狂いの丈は彼らのほうが酷い気がしますけどね。

(ああ、そうなると私も死んでしまうかもと今気づいた)

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 突然ですが、私怠惰なペシミスト(悲観主義者)でございます。こんな事言ったってどうなるわけでもないんですが、今回は楽観主義と悲観主義について少々書こうとその場の気分で思い立ったのでかかせてもらおうかと。

ΞΞΞ

 悲観主義や厭世観というのは、とかく煙たがられます。『マイナス思考』や『厭世観』とも言い換えればピンと来る人も多いでしょう。

 お話にするとこんなかんじです。

ν

 同じアパートの隣同士に住む2人の男が同じ時刻、喉が渇いたので、水道から水を汲みました。
 ところが、水を汲んでいる途中で水道が止まってしまいます。
 水道管が老朽化で壊れてしまったのです。一人の男はコップを見てこう思います。
「おお、まだコップに半分も水が残ってら。ありがたくいただくとするぜ」
 しかし、対照的にもう一人の男はこう思いました。
「喉が渇いているというのに、半分しか水が入っていない......」

ν

 前者が典型的なオプティミスト、後者が典型的なペシミストです。先程も言いましたが、世の中では基本的にオプティミストで有る方がいいとされます。中には、「このままペシミストではあってはならない!」とオプティミストに転向しようとする人も存在します。私も持病が良くなってきた時、そういう考えに及んだりしたのです。



 気質というものは変えようがなく、「マイナスに考えてはいけない」という義務感と「どうしてもマイナスに考えてしまう自分」との間のギャップに耐えられず、ストレスで逆に病気を悪化させてしまいました。ついでに、悲観主義的な側面が過剰になってしまい、更に損をすることになってしまいました。
 この体験から感じたのですが、ペシミストとオプティミストには基本的に「良いも悪いもない」のではないでしょうか。悲観主義は悲観的な考えに囚われ自己を傷つけることが多く、楽観主義は時として足元を掬い自己を傷つけます。
 人間、基本的に「変えようのない自己にそぐわぬことをする」という事は毒になります。あくまで若造の私見になりますがその毒を解毒するのは、「自己の受容」ではないかと考えます。

「自分は、こんな人なんだ」

「自分は、こんな性格をもって生まれたんだ」

ということを知り、社会的な評価や観点から離れてまずはありのままを受け入れる事がないと、自己を否定することになります。自己を他の人間から否定されるのが凄い負担であるように、自己を自分という人間から否定されることもまた凄い負担になるでしょう。

 そこで提案したいのですが、何かに対して「寛容(厳しく)であれない、楽観的(悲観的)であれない」と思う人はまず「寛容(厳しく)であれない、楽観的(悲観的)であれない事に寛容になってみる」というのはどうでしょうか? 一朝一夕に体を鍛え上げたりダイエットしたりすることが出来ないのと同じで、心も一朝一夕にありたい姿に有ることは出来ないのです。

 「心の癖」を知る事は「武器」になります。ついその癖をとってしまう時に気がつけるからです。そしてそれを武器として使うことも出来るようになります。それは「楽観」や「悲観」、「怒りっぽい」とか「マイペース」である事、実に多種多様です。十人いれば十人とも持っているものの種類が違います。

 少なくとも、安易に「変わること」や「明るくなること」を他人に強いたり、楽観主義で全て良しとすることはしたくないものです。あくまで「提案」程度に留める事が望ましいと、私は考えます。そこで強制すると、最悪恨みを買いますから、ね。

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 最近、輪廻転生について考えることが多くなったんです。というのも、今生きていることに感謝している、しているんだけどどうしても叶えられない望みがあって、だったらイチバチだけど来世に賭けてみるかなー、と。
 ええ、とてつもなく後ろ向きでございます。願いそのものは簡単、人間辞めること。或いは現状の生まれへの不満を解消された状態で生まれてそこから先は自分で生きてく。

 これらは確実に一生涯叶わぬことです。しかし、このような意見ネットでよく見ませんでしょうか。「非モテだから来世に賭ける」とか。

 何となくこれ、逆襲のシャアのシャア・アズナブルとの共通点を感じずには居られないんです。

Ξ

 シャアは、ザビ家に父親ジオン・ズム・ダイクンを殺され、(と言うより育ての親からそう聞かせられていたし状況証拠は揃っていた)THE ORIGINでは母親とも生き別れています。その後、ザビ家による迫害を受けました。そして彼はザビ家に復讐を誓い、ジオン軍に入り、最愛の人(もとい母親になってくれるかも知れなかった女性)ララァ・スンを失うなどしながら終戦を迎えます。そして紆余曲折を経てエゥーゴに入り、グリプス戦役を生き延びます。

少なくとも、この時点ではシャアはオールドタイプや地球をどうこうしようとはしていないです。

しかし。グリプス戦役から4年と10ヶ月ほどして、シャアは地球にアクシズを落とそうとします。第二次ネオ・ジオン抗争の始まりです。

 これ、ぶっちゃけるとザビ家と一緒のことをしています。(ネットで散々言われてますが)アレほど憎んでいたのに。普通は反面教師にするところだと、多くの人がそう思うでしょう。

 ここにはある病にも似たものがあります。彼はザビ家に父親を暗殺されたこととその後の迫害をやり直したかった、なかったコトにしたかったと考えられるのです。

 ガンダム世界がいくら技術が進んでいるとはいえ、某猫型ロボットが出てくる漫画のようなタイムマシンはありません。(それは今も同じですがね)

 ただ、シャアの精神はそこで止まっていたのだと思います。母性と父性、両方を失ってしまった、人にとって大切な光を失ってしまった瞬間で。だから、30過ぎようとも同じ事をやり直したかった。そこまで彼が少年期に受けた傷は深かったのだと思います。サイコフレームを敢えて提供したのはライバルであり自分が得られたかもしれない母性を奪った人、アムロに勝ちたかったというのもあるかもしれませんが、止めて欲しかったというのもあるのでしょう。そうすれば、やり直すことが出来る。
(ちなみにアクシズがそのまま落ちても、シャアはザビ家のように振舞わぬこと、父のもとに召されることで結局やり直すことが出来ました)

 コレ、来世に賭けるというのと一緒な気がします。私たちは多かれ少なかれ不満を持ちます。それは打開できるもの、打開できないものがあります。打開できるものは打開してしまえばいい。それでいいんです。では打開できないものは?

 そこにシャア同様の傷があるのではないかと思います。我々は自己肯定感を養うことを「ナルシスト」「自己陶酔」と理由を付けて避けたがります。行きすぎていれば前述の語句を使うことは正しい。しかし、行きすぎてもいない、むしろ自己肯定感が低い自分や他者に向けてこれらを使うことは「毒」です。現実を認知できていないということになります。もし自己愛が行き過ぎていたとしても、これらを蔑称のように当事者に投げかけ続ければ彼らは自己を肯定できなくなります。過ぎたるは及ばざるが如しです。
自己を肯定できないと、どんどん劣等感に苛まれていきます。そこに傷ができます。しかもそれは絶えず抉られていますから、トラウマ同様に深いのです。

 閑話休題、今の社会は「肯定」よりも「否定」に満ちています。ルックスや年収、些細な性格から身体的特徴、家柄......etc。 特に今はマスコミやネットからそういう「否定」を否が応でも取り入れなければならない。(嫌なら観るな、というわけにも行かなくなってきています) そしてそれらは変えられぬ事が殆どです。変えられるものでも露見すれば否定の矛先を向けられます。

 だったら、最初からなければいいのです。

 最初からやり直せればいいのです。苦しみと今のコンプレックスのない状態から。

 来世に賭ける、というのは耐え難い不満のある現世をやり直すこと。正しく逆襲のシャアのシャアの心理ではないかと私は考えます。

 そして、今生きる人の殆どが、自己を否定された時のショックを傷として残している気がします。それ以外の原因で傷を負う人がいることを考えると、殆どの人が傷を持っているのでしょう。それを静かに深くしつつ、隠しています。その傷の痛みに耐えられなくなった時、人は様々な形で狂います。つまり、大衆の殆どは自身が嘲笑っている存在に自らがなる可能性をごまかしながら生きています。その大衆は普段は「同じ人間」と嘯きながらいざ事が起こると狂ってしまった人を排斥しようとする狂気を見せてくれます。同類でありながら、同類を否定している。そう私は思います。他ならぬ私でさえそうなのですから。

 だから、悲しいことを減らすには、まずはそんな人間の愚かしさを否定するのではなく肯定することからしなければならないのかも知れません。そして、近くにいる人をできるだけ肯定してあげる。成功したら褒めてあげる。失敗しても頭ごなしに否定するのではなく良かった点を褒め改善点をそっと教える。それが寛容のひとつの形だと、愚考します。

Ξ

 個人的に最近考えたことと逆シャア見て(+アルファでベルチル呼んで)思ったことが頭の中でどういうわけかフュージョンしてしまい書いただけですごめんなさい。ただ、本文では書きませんでしたが「世直しなど考えていない」とか言いながら結局地球と人類のことを考えていたのではないかとも思います。少なくとも地球と人類のことがアウトオブ眼中でもなく、彼は最終的にトラウマのやり直しという二兎を追ってしまったと思います。
そこで一兎を得たかは微妙ですが、ね。

 ............何だかんだで来世に賭ける事を否定してしまったかも知れませんが何処まで若造が大口を叩こうと未だに来世に賭ける気持ちが拭いきれません困ったもんだw

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ANUBIS
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自己紹介:
 享楽主義者で極度の虚弱体質であり、調子が悪くなると饒舌に成る特殊体質の持ち主。
 なんだかんだで3日坊主ですぐ飲めないお酒に逃げたがる割に怠惰故に逃避を拒む矛盾した人。
 平日に更新しているときは大抵虚弱なお陰で病欠の時だと思われ。
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